昭和44年9月16日 朝の御理解

御理解第61節
「神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話しにして置くのぞ、信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をして行くのが真の道を踏んで行くのぞ、金光大神が教えた事を違わぬ様にして、人に伝えて真の信心をさせて行くのが神へのお礼ぞ、これが神になるのぞ、神になりても神より上になるとは思うな」




おかげの実感と申しましょうかネ、おかげを受けておると言う事の実感、おかげを受けた、おかがを受けた、と言うておるけれど、どれほどおかげを受けたと言う実感がこもっておるだろうか、とだんだん金光大神に尽きぬ話を話しにして残して置くのぞ、とこゥおっしゃっておられる。お道の信心をさして貰うと、話を聞かせられる。やはり、御理解を頂く訳です。御理解を頂きますから、事の道理と天地の道理、真の道の教えを頂く訳である、ネ、そこでイヨイヨ分からせられる事は兎に角、貴方のおかげを頂かなければ立ち行かん、と言う事である。兎に角、貴方のおかげを頂かなければ立ち行かんのである。それは解かっておっても、解からなくてもですネ、そのおかげだけは頂いておるのである。その信心があってもなかっても頂いて、それを知らんだけなのである。神様のおかげなんか頂かんでも立って行くと思っておる人があるかも知れませんネ、無心論者なんかがそうですけれども、お話を頂けば頂く程、解からして貰う事は、本当に貴方のおかげを頂かなければ、ここ一寸が動かれんのであり、ネ、もゥ刻々がいわば立ち行かんのである。ネ、貴方のおかげを頂かなければ立ち行かんと言う実感、私はそのおかげの実感と言うのは、先ずここから頂かなければならない。話を聞いて助かる、話を聞いて解からして貰うのである。そして貴方のおかげを頂かなければ立ち行かんと言う ? 様がまァ実感として、それを実感しております、本当に神様のおかげ頂かなければ出来るこっちゃない事がよう解かっております。だんだん解かって来る、で、それが私はまァ言うなら学校へ通うて、稽古をすると言う、なら其処までを解からして貰う為に学校へ通うんだと思うですネ、まァ合楽学校とでも申しましょうかネ、そう言う事を解からして頂く為に、まァ稽古に通うて来る。ネ、ほんとに例えば道理の上から言うても、いわば、理屈理論の上から言うても、この神様のおかげを頂かなければ立ち行かんと言う事が、どう言う角度から見ても解かって来た。そこで私は大体、そうはっきり区別をするのじゃ無いけれども、話の順序がネ、そう言う風に言った方が解かり易いから、まァ申しますけども、ネ、そう言う稽古をさせて頂いて、どの角度から、どう言う角度から見ても、この神様のおかげを頂かなければ立ち行かんと言う事実と言うかネ、それをまァ解からして貰う、解からして貰うたら、今度は、どう言う事になるかと言うとネ、貴方のおかげを頂かなければ立ち行かんと言う、貴方の心にネ、添う生き方、いわば、添って行く為の修行がなされなきゃならんと思うネ、解かったんですよ、まァ貴方のおかげを頂かなければ、もゥ、ほんとに立ち行かんのだと解かった。だから解かったんだから、ほんなら、その貴方のネ、いわゆる貴方の心、よる貴方のおかげを頂かなければ立ち行かんのである。まァ例えて言うなら、うちは主人が居ってくれて立ち行っておる。主人のおかげでと、例えば言う事が解かったから、そんなら、どうしなきゃならんか、そんなら、その主人を大事にしなければいけんネ、イヤーッもゥ家は家内が居ってくれなければ、とても立ち行かんネ、と例えば解かったらネ、その家内を大事にしなければいけない訳でしょう、もゥお父さん貴方が居って頂くからと、-------昨日、一昨日でした久留米の野口さん達が、親子三人でネぇ、野口さん夫婦と、ここの田村さん、三人でお参りされた、丁度御主人の方が東京出張から帰られて、お礼参拝があった訳である。もゥ以前ここへ御神縁を頂かれる前に御商売されて、その前は銀行に勤めておられた、その時分が野口さんの一番華やかな時分だったらしい、けれども思うただけでも、思うただけでも、本当にぞーっとしますチ、主人があの時分に終戦後ですからネ、銀行であちら、こちらからの招待、招待で、もゥ毎日毎日家でご飯を頂くと言った様な事がなかった。お酒はもゥ大変に強くて、お酒のために、いわゆる失敗があると言う様な、もゥ本とにあの時分が考えて見ると、家のお父さんが一番華やかな時代でしたけれども、あの華やかな時代が続いておったら、とても、とても子供たちが、よし子さんが刺されてネ、 ?刺されて、この人達がとても、こげな今日おかげを頂いておらんて、あすこに失敗が出けて、そして商売をしなければならない様になって、その商売がおもわしくいかなくなって、信心に打ち込まして頂いたと言う事がです、言う事がおかげを頂いた。考えてみると不思議でたまらん、あの時分にあれ程飲んでおったお酒が、お酒をですネぇ、もゥほんとにお酒さえなかりゃな、と思うとった位にお酒がまァ、奥さんとしては思うとったが、そのお酒が何時の間にか止んでしまった。頂きゃ、頂いてもいいけれども、しゃっち晩酌がなかりゃならんと言った様な事もない程しに、そのおかげを頂いておる。それを言いながら野口さんが言われるんです、もゥ先生こればっかりは不思議ですと言われるんです、ネぇもゥそれこそ酒が命の様に思うておった、酒が、そのどうでも良くなって、そしてまァ、あの年を取ってから現在の所に勤められて、まァとんとん拍子で、その何と言うかネ、実力が認められて現在その良い立場で御用、お仕事が出けておられます、それでお父さんに言いますて、もゥお父さん、もゥ本当に私ども一家がネ、もゥ本当に信心が一生懸命出ける事のために、もゥどうでん、こゥでん、強うしとって貰はな出けまっせんヨ、ちゅうて、その言いよる、ご主人がもゥその、俺ら信心する為に強うして働かなならん、ちゅうて笑います、とこう言う、今度東京出張でも帰って来てから言われるそうです、もゥお前、今度御本部参拝がみんなでなされる、それには特別に稼せがにゃいかん、もゥ今度暑かったけん、もゥその一等グリーン車で行ったと、そのもゥ、何時もの様にそのお金がちっと始末しようと思ってんから、神様にお詫びをしてくれと主人が申しますと、こゥ言うネ、とにかく、その貴方が働いて貰わなければネ、私共は信心も出来んと、だからお父さんのお参りが出来んけれども私達が一生懸命毎日、日参が出来る、ともゥお父さんのおかげじゃから、貴方がもゥそれこそ、一年でん、強うして長生きして、とにかく長持ちして貰わにゃならんとこゥ言う訳ですネぇ、それだけならですネぇ、こげんともばっかりは、若い時、好きな事をする為に俺が働かにゃならんと言う様に受けられるけれども、その向こうに私が申します、貴方なしにはと、貴方がおって頂かなければ立ち行かんのだと、うちの家はと言う、その思いがです、ならお父さんを大事にされるところに、そう言う冗談話しでも出けられると言う事になって来るんじゃないでしょうかネぇ。貴方が一生懸命、もゥ本当に強うして、もゥあれだけ、あれこれと病気を色々しよんなさった、貴方が病気一つせずに、これだけ強う働いて貰うと言う事、ネ、貴方なしには、貴方の働きがなからなければ立ち行かんと言うネ、そこん所をネ、なら野口さんがそのご主人をどんなに大事にしておられるか、と言う事もネ、その話の中から、ちらちらと出て来る訳です、成る程、これだけ大事にされるなら、やっぱし主人がそれこそ覚えんごとなって一生懸命働かなきゃ出けんじゃろう、とこゥ思いますネ、信心をそこん所をですネ、私が申します、だんだん解らして頂く事はネ、結局、神様なし、貴方なしには立ち行かんと言う事実を本気で解らして貰い、突き止めさして頂く、そこまでの稽古が出けたならネ、そんならその神様を大事にさして貰おうて神様の御心に叶う、例えば生き方、在り方にならせて頂こうと言う事に、今度は一生懸命にならにゃァならんと言う事が解りますでしょ。私はどうでも、今日そこん所ですネ、これは私を始め本当に貴方無しには生きて行かれん、貴方のおかげを受けなければ立ち行かん、と言う事をですネ、もゥ本当に分らせて頂きながらです、そう言う大切な神様を本とにどれだけ大切にさして頂いておるかと、言う事なのです。その神様の言われる事を、どれ程本気で聞いておるかと言う事であるネ、そこから信心しておかげを受けてとおっしゃる、その私はおかげを受けられる様になると思うんですよネ、貴方のおかげを頂かなければ立ち行かんと言うその実感がネ、その実感がその、神様を大切にすると言う事、本気でネ、そこん処を、いわば神様を大切にすると言う事は、日頃申しております様に成り行きを大切にすると言う事も神様を大切にする事だネ、神様の教えを本気で行ずると言う事は、その神様の御心に添い奉る事なんだネ、そこからおかげが生まれて来る、ネ、そのおかげが実意丁寧にして伝えられて行く、ネ、貴方のおかげを頂かなければ立ち行かん事が解った、そこでその貴方のおかげを頂かなければ立ち行かん程しの、貴方であるから、その貴方の心を御心としての生活が出ける。いわゆる本気で教えに、教えを、今まで習うて来たその事を行じさして貰う、ネ、そう言う心掛けにならして貰う、と言う事に一生懸命今度なる訳です。そらァ、貴方のおかげを頂かなければ立ち行かん、ばっかり解ったって言うとっちゃ出来ん事ネ、と同時にです、今まで受けて来たおかげの発掘だと、発掘、掘り起こす事だとネ、そこん処の信心が段々解って来るとです、今まで貴方のおかげを受けて来た事の、その事実に対してですネ、御礼申し上げてなかった。いわゆる、ここで話をして真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞと言う言葉が有りますが、神へのお礼ぞと言う事はネ、必ずしもここで言う、例えば、お導き、お話をさせる、信心をさせると言う事だけじゃない。それはもゥ、私共、おかげの実感を持って、貴方の心に添うて行くと言う処にです、御礼と言うものが有るが、その御礼だけではなくて、いわゆる今迄の受けて来ておるおかげの発掘である。ネ、それを掘って、掘って掘り抜いて行く処に本当に、今迄このような大変なおかげを受けておった事に対する、御礼が出けていなかった事が解るから、ここに御礼ぞと言う御礼が出来る様になる訳です。思うて見るとですネェ、おかげを受けておる事の事実に対する、このゥその深さ、広さ、とでも申しましょうかネェ、もゥ本当にこりゃァ大事な、大変な事だと、こゥ思うんです。夕べも吉井の熊谷さんが、夜の御祈念にお参りをして見えられて、丁度昨日の朝の御祈念の時にまァ、囲筒屋の観劇の御招待があっております、で、昨日久留米にその御芝居を見に行かれた訳です。もゥ本当に前の方で、しかも一番、まァ御芝居を観るのに一番よかとこです。よか場に丁度その御繰合せを頂いて、おかげ頂いて観ておる、もゥ、それこそ、豪華絢爛と申しましょうかネ、まァ、そのあんな素晴らしい衣裳を初めて見たと、その衣裳を着けて、その御芝居を観て来られてですネ、ようも目が見えておると言う事、又は耳が聞こえておると言う事、ズーっと御芝居を観せて頂いておる間ネ、台詞聴かせて頂いておる間お礼を申して居りました、とこう言うネ、その前の日に目が見えておると言う事、この一点だけに絞って、この事の有難さを解からして貰おうと言う御理解でしたが、まァそれ以来続いておる訳ですネ、熊谷さんの場合はお芝居を観せて頂いて居ると言う事がネ、聞こえて来ると言う事が、ようも見えて居ると言う事、又聞こえて居ると言う事ネ、その事の有難さと、私もあれ以来、暇さえありゃ、目をつぶって居る様な心がけにならせて頂いて居る、昨日、一昨日の御理解以来、もゥ本当に有難いですネぇ、だから、その、いつも目をつぶってとかな訳じゃなか、もゥはだん時にゃ目をつぶって居る、そして神様を思う、そして寝る時、チョッとばかり目を開けて見ると、ここに見えると言う事実がネ、実に有難いんです。お風呂に入ってからでも目をつぶってから入るです、でけるだけネ、で、解からん時だけチョッとばっかり目を開くる。両方開くると勿体無かち、半分ばっかり開けち見る、片一方の目でジーっと見る、はァここ、見えるですけんネ、その片一方で薄らぱアーっと、ちいっとばっかり開けても見えるですからネ、もゥ本当に有難い、私しゃ、そう言う工夫がいるのじゃないでしょうかネ、信心させて頂く者には、処がですネ、少しばっかり目を開けて見えると言う、その事実に対してです、本当に御礼を申さして貰いよると、聞えておる事も有難うなって来る、なら、手が動いて居る事も有難うなって来るんですョ、お風呂にこゥ浸って居ることが、又有難くなって来るんですョ、ですから、私はあんまり漠然と広い処の範囲からです、有難いものを吸収しようと言う事は至難だと思うですネ、あまりに目が粗うなって来るですョ、ですから、目が見えておると言う事、だけんでも有難いと言うものを解らして頂く為にも、目を瞑って、目を瞑ってもお話が出けるネ、それで、もゥ少しこゥ見たいけん、まァ少しばかり目を開けて見ると言う様にですネ、私は昨日、一昨日から熊谷さんに会ってばってん、もゥ 見えると言う事がですネ、見えると言う事が有難いと、言う事と同時に見えると言う事が有難くなって来たら、聞こえる事が、動いておる事がです一緒にズーっと、こゥ続いて有難うなって来る。私はその、おかげの発掘と言うのは、これだと思う。もゥこれ程に見えておる事に対して、有難いものを感じた事はかって無かったと、その有難さがです、お礼になって表れて来るネ、神へのお礼ぞ、と言うのはそれなのです。おかげをおかげと実感したから、お礼が出来るのである。ネ、お礼参りが出来るのである。お礼のお供えが出けるのである。お礼のお導きが出来るのである、ネ、そう言う、わたしは今日申します様な有難い、にならなければネ、神になるのぞ、と言った様な事になって来ないと思う、ネ、貴方のおかげを頂かなければ立ち行かん、その実感ネ、段々信心をさして頂いておるとですネ、尽きぬ話をと言う、話にして残して置くと仰る、その、その話を聴く事によって、この神様のおかげを頂かなければ立ち行かん、と言う事実をです、私共は突き止めたならば、その神様の、貴方のおかげを頂かなければ立ち行かん、のならば、その貴方を大事にしなければならないと言う事、そこから生まれて来るおかげネ、同時に今まで気が付かなかったおかげに対するお礼ネ、見えておる事やら、聞こえておる事やら、当り前の様に思っておったネ、漠然とは御礼を言うておるけれどもです、それが本当の神様の御心に添う様な御礼になっていなかった為に、不自然な様だけれども、いっぺん、時々位は目を瞑って見てですネ、いっぺんに開かずに少しづつ開けて見て、見えて来るネ、目の前にこれがはっきり見える、と言う事に対してもです、本気での御礼がなされなければならない。それが信心だネ、その御礼、そう言うお礼の信心が私は神への御礼ぞと、おっしゃる御礼であり又、神になるのぞ、と言う事にもなる。ネ、今日は今日まで頂いて来た、例えば勉強した、そして、まァ今日、ここん処は卒業すると言う、信心を一つ皆さん実感して貰いたいと思いますネ、それはどう言う事かと言うと、  この神様のおかげを頂かなければ立ち行かん、と言う事をあらゆる角度、あらゆる体験、様々な体験、めいめいの体験の中から、この神様のおかげを頂かなければ立ち行かん、と言う事が解ったと言う処を一つ卒業して貰いたい。ネ、ここ今日をいわば境に、ですから、これからは神への御礼ぞ、と言う信心が繰り返されなければいけない。それには私はおかげの発掘と言う事を申しましたよネ、見えて来る、見えて来る、目を開ければ段々はっきり見えて来る、見えて来るネ、もゥ失眼した人が手術をする、包帯をして一ヶ月なら一ヶ月間、じィーっと真っ暗い世界に生活しておる、その包帯が取れて来る時に明るい光が入って来る、目の前に人が見えて来る、そう言う喜びをです、私共は実際に実感して行きたい、全ての事の中から、ネ、それがおかげの発掘、それから貴方のおかげを頂かなければ立ち行かん、と言う事になったから、それが解ったから、なら、貴方の心に本気で添わして行こう、と言う事になる。貴方を大切にすると言う事になる。さァ、今日からです、そこん処を本気で取り組んで頂きたいネ、貴方のおかげで立ち行っておるならば、なら、貴方を大事にしなければいけないじゃないか、野口さん夫婦の事じゃないですけれどネ、貴方が健康で働いて貰わなければ野口の家が立ち行かん、だから御主人を大切にされる。大切にされるからあの、言わば年配でです、もゥ、それこそ、もゥ、一花も二花も花を咲かせられて、もゥ言うなら隠居しとってもいい年配になってから、あゝして働いておられる、その働いておられる事が今までの働きとは違った意味、いわゆる意義のある働き、本気で家内が喜んでくれる為の働き、それが出来る、そこから今迄かってなかった夫婦の円満と言うものが、これを良子さんが言われる様に家の○○先生と話される、私共も、どうでも久留米の野口夫婦の様な夫婦に年寄って行かなきゃいけません。あれが手本です、と言うて話しますと言われる様に私がまだ高校時代に良子さんが言われるネ、あちらの全盛時代、言うならば野口さんが花咲かせておられる時代、時代はいつゥも父親の顔と母親の顔ばっかりを見てから過ごしたと、もゥ、今日もあんまり雰囲気が良いな、今日はあんまり機嫌が悪いな、そゥ言う思いの中に私共は育って、もゥ、その花が咲きっ放しであったら、どう言う事になっておったか解らない、その花が散って、そして人間、難儀な中を通らして頂いて信心を頂いたと言う事がこの様なおかげになって来ておる、と言う事ネ、そこに勿論そのおかげを、イヤ限りがない程のおかげをですネ、今、野口さん達、もゥ言うなら老夫婦と言うてもいいでしょうネぇ、お爺ちゃん、お婆ちゃんですからやっぱしり、老夫婦ですが現在の働きの中に、もゥほんとに喜びでの一杯の日々の御用が出けておられると言う事、貴方が働いて貰わなければ私共、御本部参拝もでけん、毎日椛目にお参りする事も出来ん、だから貴方は一日でん長生きして貰わなならん、一日でん働いて貰らわんならん、もゥ俺をそん道具のごとし思うとる、俺を使う事ばっかり考えておると言うておられます。それを貴方が働いて貰わなければ出来ないと解ったから、その貴方を、もゥ心の底から過去何十年間と言うものではない、芯からの大切にする事が出来る様になった、ネ、そこから野口さんの今の喜び一杯の仕事、御用が出来る様になったと言う様にですヨ、貴方のおかげを頂かなければ立ち行かんと言う事実を今日まであらゆる角度から教えて頂いたのであるから、その貴方を大切にしなければです、本当な事になって来ないじゃないかネ、今日からそこん処を私はおかげ、いわゆる神への御礼ぞと言う処の信心をです、一つ本気で身に付けていかなければいけん、と思うですヨネ、どうぞ!!

甲斐田誉